星 を 眺 め る 人
飼牛 万里
「星」、心にやさしく響く言葉です。
子供の頃、船で太平洋を渡って日本とアメリカを行き来したことがあります。
360度見渡す限りの大海原と満天の星空。その中に漂う小さい木の葉のような船の上で、
降り注ぐ星に身も心も包まれて、立ちすくんでいたことを思い出します。
以来、たくさんの星に見守られ、導かれてきたような気がします。
悲しいとき、つらいとき、うれしいとき、そっと窓を開け、
高く夜空に輝く星を見上げては、涙し、祈り、なぐさめられ、力を授けられてきました。
これまでの人生には、様々な出来事がありましたが、
きらきら輝く大切な思い出のなかに、星にまつわるお話がいくつかあります。
ひとつは、1996年にさかのぼります。奄美大島の南西に位置する徳之島がその舞台です。
島の小高い丘の上に、彫刻家 鎌田恵務さんとアートプロデューサーの私は、
高さ5メートル近い鎌田さんの鉄の作品「星を眺める人」を設置しました。
福岡で制作され、はるばる船で島に運ばれたものです。
鮮やかな濃紺と黄色の色彩が施され、人物が元気よく手を空に掲げ、しっかりと大地に立つ像が、
シンプルな親しみをこめた造形で表現されています。
その日からずっと毎日、「その人」は、海と星を眺めながら立っています。
その凛々しい姿にふれると、希望がわいてくるようです。
今もきっと、南海の風をたくましく受けとめながら、訪れる人の心を、青い海や空の広がりへと誘っていることでしょう。
もうひとつ、お話があります。福岡県の耳納山系に深く抱かれた山紫水明な村があります。星野村といいます。
ここは、お茶や棚田、春のつつじ、そして名前の通り、夜は天空一面の美しい星で知られています。
そこに、人々の心を強くとらえて離さないものがあります。
それは、1945年8月6日、広島に人類史上初めて投下された原子爆弾の「火」です。
一度として絶えることなく燃え続けている世界で唯一の「火」なのです。
この火は、星野村で生まれ育ち、農業を営んでいた山本達雄さん(故人)を抜きにしては語れません。
山本さんは、戦時中広島近くの陸軍駐屯地で任務についていたとき、原子爆弾投下に遭遇しました。
その時、広島で書店を営んでいた叔父さんのことが気がかりでした。
やっと戦争が終わり、復員命令が出た後、瓦礫と化した書店跡を探し出すことができました。
その地下壕で、くすぶりの中にまだチロチロと燃え続けていた小さな炎を発見したのです。
山本さんは、叔父さんの形見として、その火をカイロに移し、大切に故郷の星野村に持ち帰りました。
それ以来、広島で目の当たりにした地獄絵と極限の苦しみの中で死んでいった多くの人々を忘れられず、
火を絶やさないために仏壇のろうそくや囲炉裏、かまど、火鉢にも移し、
家族とともに誰にも話すことなく23年もの間、自宅で守り続けました。
それは同時に、無念さや怒り、憎しみに満ちた苦悶の歳月でもありました。
1966年6月のある日、お茶の取材で山本さん宅をたまたま訪れていた新聞記者が、
まだコタツに火が入っていることを不審に思ったことがきっかけで、
山本さんは積もりに積もっていた長年の思いを爆発させてしまいます。
これを機に、「原爆の火」が初めて世に知られることになりました。
つかえていたものが流れ落ちた山本さんの心は、少しずつ少しずつ変わっていきました。
不思議なことに、あの耐え難い苦しみ、憎しみが平和を祈る気持ちに変わっていきました。
その後、星野村に引き継がれることになった火は,平和を願う供養の灯、世界の平和の道しるべの火として、
緑あふれる星野村の公園の一角で、静かに燃え続けています。
なんら叫び声をあげることもなく、星野川のせせらぎや夜空の星々とともに、世界へ向けて光を放っています。
山本さんは、生前キッパリとした口調で語っていました。
「火を通して少しでも平和について考えてもらえれば。いまや原爆さえおもちゃのようになっている恐ろしい時代です。
人間同士が殺しあうような愚かなことはもうやめてほしい。人間はみんな同じ。肌の色の違いなんて関係ないでしょう」と。
私は、1995年「原爆の火」が収められている「平和の塔」に設置されている銘版の英文を作成したことを機に、
この火のことを知るようになりました。その後、山本さんに直接お目にかかる機会があり、
山本さんの強く平和を願う気持ちに心を打たれました。
私は、日本だけではなく、世界中の人々にこの話を伝えなければという思いに駆られ、この物語を英文で執筆し、
2008年「The Keeper of the Flame」(火を守った人)と題して、本を出しました。
世界各方面から反響がありました。
中でもバングラデシュでは、著名な作家のFakhruzzaman Chowdhury(ファクルザマン・チョウドリー)氏により
ベンガル語(バングラ語)に翻訳され、バングラデシュで出版されました。
本のメッセージが翼を得て世界に飛んでいく様子を見ながら、うれしく思っています。
同書の最後のページに、月から見た地球の写真を載せています。
真っ暗な無限に広がる宇宙の中で、ただひとつ浮かぶ青い星「地球」。
写真の下に、「We live there」とひとこと記しました。あんなに美しい星にわれわれは住んでいるんだよ、という思いをこめて。
これから、鎌田さんの「星を眺める人」のように、もっともっと星を眺めてゆきたい。
そして、地球からだけではなく、宇宙からも、地球というかけがえのない星をもっともっと眺めてゆきたい。
そうすれば、この美しい星に生を受けたもの同士で、憎しみあい、傷つけあうことなどなくなってしまうはずなのです。
今日、この星のてがみを書かせていただきました。
また私の人生の中で、星のお話が一つ増えました。
追記:
この原稿は、2011年3月10日、「星のてがみ」に送付したものです。
その翌日の11日、東日本大震災が起きました。言葉もございません。
震災で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申しあげます。
同時に、被災された方々に少しでも早く安らぎのある生活が戻ってきますよう、何よりも強く願っております。
また、救援、復旧、医療その他様々な現場で命をかけて献身的な活動に邁進しておられる方々に心より敬意を表します。
日本に暮らす全ての人々に、平穏な日々が再び訪れることを切に祈りながら。
子供の頃、船で太平洋を渡って日本とアメリカを行き来したことがあります。
360度見渡す限りの大海原と満天の星空。その中に漂う小さい木の葉のような船の上で、
降り注ぐ星に身も心も包まれて、立ちすくんでいたことを思い出します。
以来、たくさんの星に見守られ、導かれてきたような気がします。
悲しいとき、つらいとき、うれしいとき、そっと窓を開け、
高く夜空に輝く星を見上げては、涙し、祈り、なぐさめられ、力を授けられてきました。
これまでの人生には、様々な出来事がありましたが、
きらきら輝く大切な思い出のなかに、星にまつわるお話がいくつかあります。
ひとつは、1996年にさかのぼります。奄美大島の南西に位置する徳之島がその舞台です。
島の小高い丘の上に、彫刻家 鎌田恵務さんとアートプロデューサーの私は、
高さ5メートル近い鎌田さんの鉄の作品「星を眺める人」を設置しました。
福岡で制作され、はるばる船で島に運ばれたものです。
鮮やかな濃紺と黄色の色彩が施され、人物が元気よく手を空に掲げ、しっかりと大地に立つ像が、
シンプルな親しみをこめた造形で表現されています。
その日からずっと毎日、「その人」は、海と星を眺めながら立っています。
その凛々しい姿にふれると、希望がわいてくるようです。
今もきっと、南海の風をたくましく受けとめながら、訪れる人の心を、青い海や空の広がりへと誘っていることでしょう。
もうひとつ、お話があります。福岡県の耳納山系に深く抱かれた山紫水明な村があります。星野村といいます。
ここは、お茶や棚田、春のつつじ、そして名前の通り、夜は天空一面の美しい星で知られています。
そこに、人々の心を強くとらえて離さないものがあります。
それは、1945年8月6日、広島に人類史上初めて投下された原子爆弾の「火」です。
一度として絶えることなく燃え続けている世界で唯一の「火」なのです。
この火は、星野村で生まれ育ち、農業を営んでいた山本達雄さん(故人)を抜きにしては語れません。
山本さんは、戦時中広島近くの陸軍駐屯地で任務についていたとき、原子爆弾投下に遭遇しました。
その時、広島で書店を営んでいた叔父さんのことが気がかりでした。
やっと戦争が終わり、復員命令が出た後、瓦礫と化した書店跡を探し出すことができました。
その地下壕で、くすぶりの中にまだチロチロと燃え続けていた小さな炎を発見したのです。
山本さんは、叔父さんの形見として、その火をカイロに移し、大切に故郷の星野村に持ち帰りました。
それ以来、広島で目の当たりにした地獄絵と極限の苦しみの中で死んでいった多くの人々を忘れられず、
火を絶やさないために仏壇のろうそくや囲炉裏、かまど、火鉢にも移し、
家族とともに誰にも話すことなく23年もの間、自宅で守り続けました。
それは同時に、無念さや怒り、憎しみに満ちた苦悶の歳月でもありました。
1966年6月のある日、お茶の取材で山本さん宅をたまたま訪れていた新聞記者が、
まだコタツに火が入っていることを不審に思ったことがきっかけで、
山本さんは積もりに積もっていた長年の思いを爆発させてしまいます。
これを機に、「原爆の火」が初めて世に知られることになりました。
つかえていたものが流れ落ちた山本さんの心は、少しずつ少しずつ変わっていきました。
不思議なことに、あの耐え難い苦しみ、憎しみが平和を祈る気持ちに変わっていきました。
その後、星野村に引き継がれることになった火は,平和を願う供養の灯、世界の平和の道しるべの火として、
緑あふれる星野村の公園の一角で、静かに燃え続けています。
なんら叫び声をあげることもなく、星野川のせせらぎや夜空の星々とともに、世界へ向けて光を放っています。
山本さんは、生前キッパリとした口調で語っていました。
「火を通して少しでも平和について考えてもらえれば。いまや原爆さえおもちゃのようになっている恐ろしい時代です。
人間同士が殺しあうような愚かなことはもうやめてほしい。人間はみんな同じ。肌の色の違いなんて関係ないでしょう」と。
私は、1995年「原爆の火」が収められている「平和の塔」に設置されている銘版の英文を作成したことを機に、
この火のことを知るようになりました。その後、山本さんに直接お目にかかる機会があり、
山本さんの強く平和を願う気持ちに心を打たれました。
私は、日本だけではなく、世界中の人々にこの話を伝えなければという思いに駆られ、この物語を英文で執筆し、
2008年「The Keeper of the Flame」(火を守った人)と題して、本を出しました。
世界各方面から反響がありました。
中でもバングラデシュでは、著名な作家のFakhruzzaman Chowdhury(ファクルザマン・チョウドリー)氏により
ベンガル語(バングラ語)に翻訳され、バングラデシュで出版されました。
本のメッセージが翼を得て世界に飛んでいく様子を見ながら、うれしく思っています。
同書の最後のページに、月から見た地球の写真を載せています。
真っ暗な無限に広がる宇宙の中で、ただひとつ浮かぶ青い星「地球」。
写真の下に、「We live there」とひとこと記しました。あんなに美しい星にわれわれは住んでいるんだよ、という思いをこめて。
これから、鎌田さんの「星を眺める人」のように、もっともっと星を眺めてゆきたい。
そして、地球からだけではなく、宇宙からも、地球というかけがえのない星をもっともっと眺めてゆきたい。
そうすれば、この美しい星に生を受けたもの同士で、憎しみあい、傷つけあうことなどなくなってしまうはずなのです。
今日、この星のてがみを書かせていただきました。
また私の人生の中で、星のお話が一つ増えました。
追記:
この原稿は、2011年3月10日、「星のてがみ」に送付したものです。
その翌日の11日、東日本大震災が起きました。言葉もございません。
震災で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申しあげます。
同時に、被災された方々に少しでも早く安らぎのある生活が戻ってきますよう、何よりも強く願っております。
また、救援、復旧、医療その他様々な現場で命をかけて献身的な活動に邁進しておられる方々に心より敬意を表します。
日本に暮らす全ての人々に、平穏な日々が再び訪れることを切に祈りながら。
(2011年3月18日記)
プロフィール
上智大学外国語学部卒業。
これまで、語学教育者、翻訳家、ライター、
国際コーディネーター、アートプロデューサーとして、
多彩な分野で活躍。
言語、文化、芸術を通して、世界の人々の心を
結ぶことを人生の使命としている。
現在、中村学園大学教授。
主な著書・訳書
「The Keeper of the Flame」
「おそれずに人生を」
「海のかいじゅうスヌーグル」
「少年時代」
「おかあさんが乳がんになったの」ほか多数。